選抜する問題、評価する内容
1つ前の記事「高校英語:正確さ優先からの転換」に対するご意見をメールでいただき、その方へメールで返信した内容を、記事としてお伝えしようと思います(以下原文のまま)。
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私のブログ記事のもとになったものは次のページです。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009090600086
・・・
日本のテストは、減点方式がかなり徹底されているのがとても気になります。
すでにブログで読まれたかもしれませんが、マラウイの英語テストで、次のようなものがありました。
「あなたはおじさんから自転車を借りました。マーケットで買物をしているときに、その自転車が盗まれてしまいました。盗まれた状況と、どのように償うのかをふくめておじさんへ宛てた詫びの手紙(英文)を書きなさい」
このような採点しにくいテストは、日本では絶対にしないことが、私はとても残念です。こういう問題を解くことをやらなくなるからです。
残念ながら、ヒトは、評価のされ方次第で、研鑽するものがどんどんかわってくると思います。
学校の選抜や、会社などの評価の中身が、実は人の質を決定していいるように思えてならないのです。
それくらい、人の選抜や評価は重大だと思います。大統領や総理大臣の選出は大きなニュースですし、試合やコンテストのランキングはとてもとても重大です。
開成中学校の国語の問題を読めば、開成中学校の国語はこのような問題を解ける人を求めている、というのがわかります。(これも東大と連動していますが・・・)
また、自転車のわび状を書かせる問題を出すのであれば、そのようなものができる人を国は求めているのがわかりますし、生徒たちははげむようになると思います。
出題者(主に大学のことですが)は、明確な差をつけることだけを目的にして問題を作っているように、私は思うのです。
これだけ影響力が大きい選抜のための問題ですので、求める人物像が感じられるようなテストを出してほしいと思います。
・・・
以前ブログで書いたかも知れませんが、フランスの大学は卒業要件として、社会(たとえば会社)から卒業OKを得ないと卒業できないようになっていると聞きました。(3カ月程度社会で実習してからOKを得て卒業になります)
私自身、フランスの大学院生を数カ月預かり(研究所の助手)ました。彼がアメリカのドクターコースへ行くときに推薦状を書いてあげました。
このフランス式のやり方は、すごくいい考え方だと思います。本来、大学が独占したい権力を社会に委ねているのです。(就職活動はどんどんさせたとしても、きっと日本ではやらないでしょう)
社会が求める人材を育成したかどうかの判断を社会に求めているのです。
責任放棄という人もいるでしょう。でも、私は英断だと思います。
社会がどんな人を求めているか・・・
問題を見つけ、そのことを周囲とシェアし、協力して問題解決に当たれることではないでしょうか?
調査も思考も伝達も協力もできないとなりません。
合ってる、間違っている、だけで選抜していると、いずれ、ほしい人が採れない、育てたい人を育てられないことになるのではないかと心配して意見を述べているつもりです。
***
自民党総裁選。
私達へアピールしていたことは「世代交代」「派閥解消」。
内輪の問題を外にアピールしています。また、選ばれた方の意見「1つだけお伝えしたいこと。それは、みんなでやろうぜ」にも唖然・・・。
取り残されているさまは、哀れにも感じられました。
ヒトによる評価と選抜の問題はいたるところにあるので、重大さの度合いは、非常に高いと思います。
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高校英語:正確さ優先からの転換
文部科学省が教員向けの説明資料で、英会話では流れを大切にした指導を行い、生徒の積極性を損なわないよう求めていることが今月6日(2009年9月6日)わかりました。
手短に言うと、これまでの高校英語では文法やスペルの正確さを重視しすぎていていたのを、今後は多少の誤りがあっても、目くじらを立てずに流れを重視したものとする、というもののようです。
とてもいい方向づけだと思いますが、ある意味当然な話です。
言葉は伝達する手段であり、コミュニケーションが円滑に行われることが目的であるにもかかわらず、スペルを違ったとか、文法に合っていない、ということで減点することに注力し、それで学力を評価してきたのです。
逆に、自然でなめらかに話せることなどについては、これまで全く評価を行ってきませんでした(ゼロ点です)。
合っているか、間違っているかでのみ、教師も、生徒も必死になって取り組んできたわけです。
だから、ガタンゴトン英語(なめらかでない日本人の英語のこと)から抜け出なかったのです。
今回、文部科学省が方針を変更する、という話ですが、そもそも、「正確さ重視をせよ」とこれまで指示を出してきたのかどうなのかも定かではありません。
大学入試や高校在学中のテストが、そのようなものだけを評価する仕組み、内容だったからにこのようになってきた、のではないでしょうか?
これを改善するのは、文部科学省の通達だけではむずかしいと思います。
少なくとも、「ちゃんと『流れ』を評価するように」と指示しないことには、現場は何も変更しないでしょう。大学入試は何も変わらないでしょう。高校の教室での授業も、そして試験も変わらないでしょう。
これまで通り、評価しやすいものだけ評価するからです。
どう理解し、どう伝えられるか・・・。
要は、伝達の内容と質が問われていることだけは確かですが、どうそれを評価するか。
高校も、大学も真剣に考え、取り組んでいただきたいと思います。
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ききまね英語400マスターをリリースします
ききまね英語の第2作「400マスター」をリリースします。
この商品は、初めて英語を学ぶお子様でも、ききまね英語式に、自然な感覚でDVD学習できるように考慮して制作したものです。
ですから、基本的に大人の方は不要だと思いますが、たとえば、学生時代にちゃんと英語を学べなかった戦中派の方とか、本当に一から学びたい方、あるいは、学び始めたけれどもつまずいてしまった中学生のお子様など、利用する価値はあると思います。
20スキットで400の単語と表現(あいさつや文法説明なども含む)を学べるようになっています。
追って、ポイントなどをこのブログでもお知らせしたいのですが、リンクを結びましたので、下のリンクをクリックすると出来立ての案内ページへジャンプします。
「いい音聞かせて」式の教育
親として、あるいは教師として教育にたずさわると、子供からエネルギーをもらえる、と言うものの、大量にエネルギーを消費してしまいます。
放っておくと集中しなかったり、遊びがちなのを、どうやって意欲的に取り組ませるか、悩んでしまいます。
そこで、陥りやすい甘い誘惑は・・・。
「遊んででばかりいると・・・ですよ」「こんど・・・だったら承知しませんよ」といった脅しを行うか、「・・・はできましたか」「おさらいはしましたか」と、確認を行うことはよくあることではないでしょうか?
あるいは、「今度のテストでは何点取りますか」など公約を求めることもあることでしょう。それを達成したらご褒美をあたえるかどうか、など、さまざまな手立てを講じることがあるかも知れません。
知らず知らずのうちに、脅しや管理手法を使います。受験勉強など、管理できなければ、成功はむずかしいものもあることは確かです。
このように、まず、発言内容を点検してみると、学習者との関わり方がしだいに見えてくるものです。
脅しや管理が教育の基本だとは誰しも思わないことでしょうが、では、どうすればいいのでしょうか?
・・・
私は子供のころからピアノを学びました。
当時、男の子でピアノを習っているのも少なかったのですが、音楽を聴くことも、音楽を表現することも、とても楽しめることができ、機会を与えてくれた親を感謝しています。
中学生のころ、ピアノのリサイタルに参加しました。
演奏後、その有名なピアニストは、ピアノの学び方、教え方についてのお話をしてくださり、Q&Aの時間まで作ってくださいました。そこで、
「あなたの一番いい音を聞かせて」
と、そのピアニストは、初めてピアノを弾く子供(幼児)に求めるのだ、というお話をいただきました。
なんと、幼児でも、鍵盤に向かって、すてきな音を作ろうと一生懸命になるのだそうです。
私は、この方法が一番いい教育法だと思います。
ネガティブな発言もなければ、特段管理を強化しているのでも、ご褒美を約束しているのでもありません(もちろん、「ズバリ子供に成果を求めている」のは確かですが・・・)。
音と接する接し方を導く(センスも磨く)この方法は、「おさらいをしましたか」式の管理教育とまったく違うのがおわかりいただけるでしょうか?
実はこれは、目標指向(ゴールオリエンティド)の取り組みにも通じるものです。ビジネスでも、家庭でも、パブリックでも、プライベートでも役立つ方法なのです。
「学ぶ」ときには、学んだら得られるだろう状態についての感覚をしっかりと意識して持ちながら、学ぶべきだと考えています。
私たちは脅しや管理の力で、小さな大切な「センス」と「意欲」を決してつぶしてはなりません。
初めてピアノを弾く幼児でも、「いい音聞かせて」と求めれば、実はセンスを活性化して(音感を研ぎ澄まし)、意欲的に応えてくれる(一生懸命取り組む)という事実は、すばらしいことだと思いませんか?
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消しゴム万引で懲役2年の実刑判決
この標題の新聞記事(朝日新聞・7/15夕刊)が書かれているのが目に留まりましたが、日本の今の話だとは最初は思いませんでした。
なんでも、息子への手紙の下書きを鉛筆でするのに消しゴムがほしくて、近くのスーパーで万引きした70歳の女に対して岐阜地方裁判所が出した判決が、懲役2年の実刑というものだったようです。
逮捕された後、「二度と悪いことはしない」とスーパーの店長、検察官、弁護士あてに手紙を書いていて、反省の気持ちを表していたようです。でも、このような判決となりました。
常習累犯窃盗罪(つまり、同様の犯罪を繰り返したことに対する重い罪)が適用されたようですが、消しゴム1個(98円)を盗んだことで、2年の実刑は、誰が考えてもバランス感覚を欠いた判決だと言えないでしょうか。
菅谷さんの釈放を契機に、裁判の誤りや裁判所の検察寄りのこれまでの判断などを知ることができました。
日本では、検察が裁判に持ち込んだ99%が有罪になっているそうです。
この数字からすると、ひょっとして、ミャンマーやその他の民主的でないと思われている国々以上に、日本は国際的には「検察の意見素通り」の国家なのかもしれません。
本当に司法が機能しているのだろうか、と不安に感じました。
日本は民主主義国家になったように思われていますが、政治の問題だけでなく、司法についても、形骸化、硬直化していないだろうか、と考えさせられました。
私たちは日常生活を送りながら、社会生活を行っています。
そして「不正義」や「不平等」といったものを感じると、心が反応を起こします。
腹が立ちます。怒りを覚えます。変えたいと思います。
しかし、一般に、日本人は日本社会への適応する力が非常に強く、その反応を抑えてしまうようになっていないでしょうか? すなわち非常に我慢強く環境に適応する、ということです。
たとえば、鼻水が出たら、すぐに薬を飲んでその反応を抑えるように、感じても、その反応を抑え、議論をせず、改善することもせず、時折、「・・・が悪いのではない、悪いのは社会だ」(某コマーシャル)というような、怒りの対象を薄めるような生き方をしていないでしょうか?
平和な国になったわけですから、平和的に意見をしっかりと出したり、議論したり、検討したり、手分けして改善したりすべきではないかと私は考えます。怒らなくても、喧嘩をしなくてもいいので、改善すべきだし、改善するための問題点を整理して、議論して、段取りをつけていくべきではないか、と考えるのです。
もちろん、先日の選挙のように、じっと黙っていても、淡々と野党へ投票するようなことも起こってきているので、変わってきたのかもしれません。
今回の記事「消しゴム万引懲役2年実刑判決」について、単にバランスを欠いた判決があったということだけを言いたいのではありません。せっかく市民が参加する裁判を行う時代に入るわけです。市民が社会に意見を言い、社会の仕組みを考え、社会を変えていくステップ、仕組み作りを考える時代にしたいものです。
300万人以上の死者を出し、領土・財産を失い、国土を焦土と化し、戦争終結すら政府の手で行えず、国際的な信用も国家の名誉も失った先の戦争について、国家としてとくに国民に対して総括をせず謝罪も行わないことを思い出すと、私自身、不正義や不平等、バランス感覚の欠如などについて言う言葉すら失いそうになってしまうことも事実なのですが。
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国語力・英語力、そしてハイブリッド
教育にたずさわる方から、「国語力・英語力」というのタイトルのメールをいただきました。
そのメールの中で英語に限らず、日本語についても、学力の低下の実態と問題点のご指摘をいただきました。
半分冗談でしょうが、「日本語についてもききまね教材が必要かも」、というほどの国語力低下を嘆かれていました。
このお話とも関連して、少し持論をブログの記事としてお伝えしたいと思います。
ききまね英語という教材を開発して販売を行っていますが、その意味・意義として2つあるのではないか、と考えています。
1つは、お母さんから絵本を読んでもらうような、自然に言葉を学ぶ方式を採用し、日本語抜き、英文字抜きの方式にすることで、自然に音声として学びつつ、自然に話せるきっかけづくりをやろうという、メソッド(やりかた)とコンテンツを提供していることです。これはデジタルの技術の進展の恩恵を受けています。
もう1つは、いろんな事象の説明ができるように、「英語」という枠を広げる、ということです。
単純に言うと、「四則演算を英語で読めるようにすらせず、難しい随筆や時事問題の大学入試を行っている現状」に対する改善提案です。
小学校1年の算数くらい、日本の大学生には読めてほしい、という願いです。
そうでないと、かりに英文は類推しながら、辞書を引きながら読めても、また、Webであらかた調べたり、ダウンロードすることはできても、きっちりとスピーチしたり、手紙を書いたり、交渉したり、研究発表したり、という情報発信の伝達スキルが不足し、力が劣ってしまうからなのです。
私自身、日本の英語教育を受けて、大学を卒業していながら、「四角形」という単語の英訳(rectangle)すら知らずに物理・数学を教える教師としてアフリカに派遣されました。
うそのような話ですが、まさにこのギャップ、アンバランスに苦しんだ当人なのです。算数や理科にかかわる基礎の基礎の英語欠落が身にしみました。中学、高校で教えておいてほしかったと思いました。
将来、世界で活躍する若者たちには、同じ経験をしてほしくないのです。
私は、このアンバランスは英語教育の大きな問題だと思っていますが、そう考えられない方もいらっしゃるでしょう。
英語は英語、理科は理科、数学は数学と。でも、垣根が高すぎないでしょうか? 同時に教える必要はないと思いますが、数年程度離してでも学べたらと思います。
問題を発見したり、課題を見つけた時、それを広く知らしめて(アピールして)、「いっしょに解決しよう」と声を上げることは日本では行われにくいことです。広く知られたことであっても、通常、サイレントマリティー(沈黙している大勢)となっていることが多いのではないでしょうか(がまんしていることが多いと思います)。
日本には厳然と調和を尊ぶ文化があります。また、日本人はいい意味で、怒るべきシーンでも結構平静で、極端に走らず、甘んじて受け入れます。いわば寛容と中庸?の精神があり、激昂したりしません。これは世界的にはかなり特異であり、私はある意味、すばらしいことだと思っています。
しかし、逆に言うと、問題が発生しても、きっちりと、とことん突き詰めて考えたり、解決していく意欲を保持したり、進める点で、歴然と(一神教系・肉食系・動物家畜文化系といったリーダーシップ重視の)西欧と差を生じているのではないかと感じてしまいます。
決して、西欧文化が優越している、と言いたいのではありませんし、日本の良さを実感しています。しかし、論理的に話すことや、このような話をすると通常、うさんくさく思われたり、対応されるのが普通です(もちろん、興味がない場合も多いでしょうが・・・)。
西欧でも、もちろん、キリスト教が強すぎた中世の時代には、科学も芸術も主体性・創造性の点で抑圧を受けていた(自主性が抑えられていた)ようですが、ルネッサンスの開花や科学技術の発展をみればわかるように、潜在的には「知」や「美」や「理」などへの強い欲求が中世の時代にも厳然とあったため、急激に文化・文明が開化したのではないかと思います。
私たち日本人にも「美」の感性や「調和」についての深い文化があります。ジェームス・カーカップ氏のご意見「Quality of Life」もあります。そしてそれは、これまで作ってきたものを壊さず、維持する力として働いています。この基本がヒトの社会として絶対的に必要だと思いますし、何とか、終わらない紛争を続ける地域・民族の人々にも伝えたいと思います。
日本は、単に地理的に島国だったから長く国が続いているのではなく、「美」「調和」そして「我慢」と「適応」の文化も、長く国を栄えさせてきた理由なのではないでしょうか。
このような日本的な良さを維持しつつ、西欧的な合理性、そしてリーダーシップも活かせる、いわば「ハイブリッド」な方式が受け入れられていけばいいな、といつも私は考えています。
日本人がこれまで、さまざまなものを世界から取り込んできたように、ハイブリッド化が進められないものだろうか、と。
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2 + 3 = 5 は英語で?
2 + 3 = 5
これは小学校低学年の算数です。
もし、「英語でどう読むか」と聞かれたら、日本人の大多数、おそらく100%近くの方は
Two plus three equal five.
と読むと思います。
東大に合格したばかりの人たちに聞いてみても、その比率はほとんど同じではないでしょうか。
でも、残念ながら答えは違います。
equal ではなく equals (動詞の三人称単数現在形)であれば正解です。しかし一般には「=」は「is equal to」と読みます。つまり、
Two plus three is equal to five.
が正解です。
どうしてこのような簡単なことができないのでしょうか?
教えられていないからです。そしてテストの設問にないからです。どうして設問しないのでしょうか? 算数だから?
このように、日本の英語教育では、どんなに難しい文章や、時事問題や、シェークスピアなどを英語で学んでいたとしても、小学校低学年の算数を英語で正しく読めない、という現実が存在しています。
日本の英語教育は読み書き中心、丸暗記中心であり、「英語を話せない」という問題が指摘されていますが、(論理記述などに必須な)基礎を学ばせず時事や文学などに傾斜している問題に気づきます。さらにまた、(入試などで)より基礎的な問題を設定して選抜を行おうという考え方が欠如している問題が浮かび上がってきます(難問で選抜しようとする方式です)。
もし、「それは算数であって英語ではない。英語教師は算数や理科を教える必要はない」という意見の方がいたとしたら、私にはもっとショックです。そうであれば英語という狭義の「教科」の設定をやめにしたらいいのではないか、とすら考えてしまいます。
いくつか類似の表現です。
等しくないは is not equal to です。
等価は is equivalent to です。
相似は is similar to です。
合同は is congruent to です。
平行は is parallel to です。
すべて be + 形容詞 + to という構造をしています。覚えるのはすごく簡単です。
3 m は three meter(メーター)ではなく three meters(ミーターズ)です。これも、日本の大学生に解かせたらどうなるでしょうか?
本来このようなことを学ぶべき中学校では、学ぶタイミングを失い、私たちは高校へ入学します。
正三角形は equilateral triangle です。
四角形は rectangle です。
直角は right angle です。
このような基礎的な言葉は、大学入試には出ません。出しません。しかし、日本の大学生の何パーセントの人が知っているでしょうか? 知る必要がない言葉でしょうか?
もし、このような単語を知らずに日本では大学へ進学できるということを、たとえばドイツ人に話したら、びっくりすることでしょう。信じてもらえないかも知れません。
知らなくていいのでしょうか? 学ばなくていいのでしょうか? では、どうしてこのような状態を放置するのでしょうか?
もし、文部科学省の方々は、このような状況であることの問題に気づいていないとしたら、もっと恐ろしいことです。気づかずして改善はできないからです。
私は入試問題の内容や試験の仕方が変われば、抜本的に改革できると考えています。言い換えると、入試でしっかりと(このように基礎的なことを理解した人を)選抜できないから、教育のひずみを直せないのだと考えています(高校で教える教師も学ぶ生徒も、ある意味、大学入試の制約がいっしょにかかっていて、大学入試問題から変革すべきだと思います)。
確かに英語はコミュニケーションの手段であり、情報を収集する手段でもあります。しかし、単にコミュニケーションあるいは伝達の手段というだけではなく、物事(論理や科学)を学んだり、認識したり、思考するための標準的なツールです。
英語を使って事象や概念を定義したり、説明できるということは、英語を使ってきちんとコミュニケーションできることにつながります。また、世界をまたにかけて学ぶことができたり、異なる人種や意見の人たちと協調できたり、交渉できたり、ビジネスできたりすることが可能になります。
したがって、英語という言葉を思考や論理を組み立てる道具としてく位置づけようとすると、「2 + 3 = 5」を正しく英語で話せないということは、非常に重大な問題と言わざるを得ないわけです。
小学校の英語授業が必須になり(2011年)、高校の英語の授業は原則英語で行われることになります(2013年)。
ネットで英語関連のニーズを調べると、とかくTOEICなどの選択問題テストでいかに高得点を取るかということや、「英語耳」とか「聞き流し」などがはやっています。点を取ることと楽をして受動的な能力を高めることが一般の関心事になっています。
しかし、国際的にまたがって能動的、主体的な行動をしようとすると(たとえば、スピーチする、論文を発表する、説得する、調停や和解を進めようとすると)、論理にかかわるような基礎的な(英語)表現は完全に使いこなせないと、非常に困ることになるのです。
私はそのような人材を日本から輩出するべきだし、そのために英語を学ぶべきだと思います。
ぜひ、今後、きっちりと基礎的な学力をつけるようにしたいものだと思いませんか?
少なくとも日本の大学生は「2 + 3 = 5」を英語で正しく読めるようになってほしいと。
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ネイティブ無視の和製英語
ちまたには英語表現が氾濫しています。
ネイティブ信仰とは正反対に、ネイティブの英語感覚を全く無視する和製英語もたくさんあります。
標識や案内文などで、必要に迫られて英語化しているものもありますが、商品名やキャッチコピーなどの場合、日本語だけの表現より意味合いを深めたいため、または新しい感覚(雰囲気)を入れたいので英語にすることもあるでしょう。
残念ながら日本人が日本人的感覚で作った英語の場合、英語として変だったり、不自然だったり、意味を勘違いすることがあります。
言葉というものは生き物なので、新しい言葉は最初は「変」でも、次第に市民権を得ていくこともありますので、いちがいに、和製英語だからダメというつもりもありません。でも、どういうふうに「変」に思われるのかを知らないことも多いのではないか、と思いますので、いくつか最近感じたものをあげてみたいと思います。
三菱自動車の「Drive@Earth」。
宮崎あおいさんが「ドライブ・アット・アース」と「日本語式」に発音するコマーシャルを作り、全面展開している「英語」のキャッチコピーです。
このコマーシャルを見ただけでは何を伝えたいのか、さっぱりわかりませんでしたが、三菱自動車のホームページに解説があってそれを読んでようやく理解できました(かけがいのない地球から離れず、地球ドメインで走り続ける、というような取り組み姿勢を表しているようです。その意味では「at」は正解だと思います・・・)。
無冠詞で「earth」というと、地球ではなく「土」や「地面」という意味になります。
ですから、地球と言いたいのであれば、この標語を読むときには「the earth」としたほうがいいでしょう。
ただし、その場合でも、前置詞は「at」ではなく「on」になるのが自然だと考えます。
つまり「(to) drive on the earth」という表現がもっとも自然で一般的な英語だと思います。
しかし、三菱自動車の意図としては、メールアドレスの「@」にかけて、「earth というドメインで走る」という表現にしたかったようです。
でも、「drive at earth」というと「地を走る」という意味にはなっても「地球を走る」という意味には遠いと思います。
このように日本人でも意味がすぐにわからない、英語ネイティブにもわかりにくい標語を作り、膨大な費用をかけて広告していくというのには疑問符ですが、(言葉には多少の不自然さも斬新さを生むこともあるので)ある意味、頭が下がります。
この程度のキャッチコピーと実際の言葉とのギャップは許容範囲ではあると思われますので、単にチンプンカンの和製英語とは言い切れませんし、「地球ドメイン」という取り組み姿勢いをPRしたい、という気持ちがあるので、否定できませんが、残念ながらシンプルな表現でありながら、日本人にも、ネイティブにもわかりずらいコピーなのではないでしょうか。
次は、パナソニックの「ビエラ」。
実は私自身このビエラ携帯を使っているのですが、小雪さんがテレビのコマーシャルに出てきて、
「ヒューマン・ビエラ」「きれい!」
というものです(でした)。
何が変なのか、ほとんどの日本人は気にされないと思います。
「ヒューマン」
という言葉を聞いたとき、私自身ドキッとしました。
「知能を持った『人』である『ビエラ』」と、つまり「ヒューマノイドのビエラ」と言ったように感じてしまいます。「これ、ヒト?」という驚きです。
パナソニックはきっと「人にやさしい」「人が使うことを十分考えた」という意図で「ヒューマン」という英語を使っていることだと思いますが、おそらく英語にはそのような語義はなく「人の」という意味になってしまいます。
どうして日本人は「ヒューマン」という言葉がそのような意味合いを付加してしまうのか不明ですが、「ニューマニズム」という言葉の存在もあるのではないか、と思います。
昔、某化粧品メーカーが
「For Beautiful Human Life」
という(ネイティブに読ませる)コピーを大々的に広め、ネイティブの間では不可思議、ナンセンスな広告とされたものも思い出されますが、ここでも「Human」という言葉が出てきています。この中の「Human Life」とう表現がナンセンス(意味不明)なのです。「For Beautiful Life」で十分なのになぜ「Human Life」にしたのかが英語ネイティブには意味不明なのです。
パナソニックはビエラの宣伝で最初は「ヒューマン」を出し、一時ひっこめましたが、その後、また「ヒューマン」を出してみたりしています。
こんどはカタカナで「ヒューマン」ですから、「英語ではない」という主張もあるでしょう。日本人にはある程度意味を伝えますが、ネイティブには思わぬ意味を伝える(誤解させる)可能性がある表現です。
このような和製英語に対する日本人の感性を利用した広告は、非常に変ですのでやめたほうがいいと思いますが、ひょっとして和製英語起源の「human」の語義が英語辞典に追加されることがあるかも知れません。
このようなキャッチコピーについては、正しさより語感が重要なので、和製英語であっても仕方ない、あるいは意味があることがありますが、キャッチコピーでない、たとえば案内文などの場合は、和製英語ではまずいと思います。
電車に乗っていると、掲示している英文で不自然だったり誤っている表現のオンパレードです(乗る機会は少ないのですが、都営地下鉄の英語表現は割と良いように思います)。なぜこのようなことになるか、と言うと、ネイティブまたは英語が堪能な人のチェックをスキップしているからでしょう。
去年の記事にもありますが、約1年ほど前、JR東日本の電車の電子パネルへの掲示に「現在時刻」の英訳として「Now Time」と出ていて、その誤りに気付いて訂正をお願いしましたが、なんと直るのに8カ月もかかりました。
(Current Time, Present Time, Time Now はOKですが、Now Time はダメです)
このように、ネイティブ信仰をしながら、ネイティブ無視もするのが日本の特徴ではないでしょうか。
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ネイティブ信仰について
ベータラボは「ききまね英語」という英語教材を作っています。
専門のホームページやブログもあるので、詳細はそちらを見ていただきたいのですが、熟考伝達でも伝えたいと思ったことを述べてみたいと思います。
自然でなめらかに話すようになりたい、と考えた場合、どうされますか?
「英語漬けにしたほうがいい」というのは、誰もがすぐに気づく解決法です。
私も、青年海外協力隊に参加してアフリカ・マラウイ共和国へ赴任する前の3カ月ほどは、「日本語禁止」の英語授業を受けていましたし、これはとても効果的だと思いました。
先生が離れたすきに、同期の仲間同士日本語で小声で話していると先生に気づかれ「Pardon?」と言われて、制止を受けました。風呂場でも、背中を流しながら隣の仲間と英語で話していました。
英語で話さなければならない、という状況こそが、英語で話すようになる一番の近道であることは、確かに体験できました。
学校英語では、最近ヒアリングテストと称して聴覚テストのような音声だけ聴いて答えるようなテストを実施していますが、基本的にはペーパーテストで習熟度を測りながら、英語設問(クイズ)に定められた時間に答える力を養成しています。
大学の入試問題をみても、書面で尋ねた設問をいかに早く正確に選択できるか、だけが評価の対象となっています。
私は、非常に大きな労力、時間、コストをかけてきていながら、コミュニケーション能力を高めるようになっていないこと、それを計測することをほとんど放棄した入試となっていることを非常に残念に思います。
文部科学省の学習指導要領のトップにある「外国の文化に親しみ、コミュニケーション能力を高める」という目標を達するための対策がなされず、ほとんど計測も、評価もせずに戦後英語教育を進めてきているのではないか、と残念に思っています。
ほとんどの方が「その通り」と思っても、「では、どうしたらいいか?」については、以下のような方策くらいが思いつくものだったのではないでしょうか?
A.海外渡航して(ネイティブによる)英語漬けをする
B.(ネイティブによる)授業で自然な英語を学ぶ
C.(ネイティブが話す)自然な英語を大量に聞き流す
これらはすべて「英語漬け」と「ネイティブ」が必須のものとなっています。すべて有効な方法ですし、とりわけAはすばらしい効果があることは確かです。
しかし、日本人から自然な英語を学べないのでしょうか?
日本は明治維新後、多くのことを諸外国、とりわけ欧州から学びました。政府はミッションを送り、数か月、数年滞在させ、学ばせ、帰国してからも、多くの情報伝達を行いました。
同じように、かなり自然に話せるようになりさえすれば、ネイティブからでなくても伝えられるもの、学べるものがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
(このネイティブ信仰は日本の防衛状況と似たものがありますが、その話に入ると深く、複雑になるのでここではやめます)
海外に行ったことがない、非常に優秀な翻訳者を私は知っています。翻訳に関しては、文字がメインですので、渡航経験はある意味、まったく不要でしょう。
ネイティブであろうとなかろうと当然、自然でなめらかな英語を話せるようになるには、日々、自然に話し続けることが大切です。
しかし、教育現場では、残念ながら、英語の先生ご自身が、(文法的・語法的な)誤りを冒すことを恐れて、あるいは自然さより正確さを求めるあまり、英語をあまり話さなかったり、テストに出ないものは排除したりしてきていたとしたら、とても残念です。
そのような状況が続いたため、ネイティブ信仰が確立されてきたとも言えるのではないでしょうか?
テレビを見ればわかるように、数十年前では考えられない状況になってきています。
日本へ来て、ぺらぺら日本語を話す外国人がどれほど増えてきたのでしょうか。もちろん、テレビに出ている人たちだけではありません。
同じように、英語を学び、どれだけぺらぺら英語を話す日本人が増えてきたのでしょうか?
さて、2013年に英語での高校英語授業が開始です。
私自身、これは文部科学省の英断だと思っています。
いやがおうにも教室で話さなければならないわけですから、自然に話せるようになるステップとなる可能性大です。
この、とても大切なステップへと進まなければなりませんが、どうするかはほとんど現場任せになってるのだと思います。
さてさて、そのときも「さあ、ネイティブの発音を聞きましょう」などと、ネイティブ信仰は保持されたままなのでしょうか?
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ついに新型インフルエンザが上陸
恐れていた時が来ました。
全く抗体を持たず、感染力の高い新型インフルエンザが急速に広まっています。
今のところ、弱毒性であり、致死率が低いので、パニックを起こしていないのではないかと思いますが、神戸や大阪はきっと大変なことだと思います。
東京も、すぐにやってくるだろうと思っていたときに、昨夜のニュース。
またまた、高校生。
もし、はしかのように、二度とかからないのであれば、弱毒性のうちに、感染しておいたほうがいいのかもしれません。簡易ワクチンとして。
でも、こればかりはわからないのがむずかしいところでしょう。
個人的には、マスク、手洗い、うがい以外には、プロポリスや乳酸菌といったものもいいのではないか、と考えています。
今後、マスクは必須のアイテムになるでしょうが、マスクの下にプロポリスの液を噴霧しておいたり、マクロファージなどの活性を高める乳酸菌をしっかりとって、体内の免疫系に「しっかり守るように」指令を出しておきたいと思います。
どうか、新型インフルエンザは蔓延しませんように。
かりに、広まったとしても、逆に次回以降の免疫になりますように。
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